平成23年05月26日 参議院 外交防衛委員会

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参考人(拓殖大学教授) 下條正男
そういう点で見ていきますと、日韓関係というのは戦前と戦後で大きく変わっています。確かに日本は戦前、朝鮮半島を統治いたしました。戦後、日本はあの太平洋戦争に敗れて以降、国際的にも非常に孤立した状況でもあり、それからサンフランシスコ講和条約が発効する以前は国際的にも全く無力でした。韓国側は、そのサンフランシスコ条約が発効するのは1952年の4月28日ですが、その3か月ほど前の1月18日に李承晩ラインを引いて、そこから実は竹島問題というものが起こってきます。そこから日韓の立場が逆転するんですね。つまり、日本は侵略された立場になるわけです。

そういった問題が再度表面化してくるのが2005年の3月ですね。先ほどの朝鮮王朝実録にしても北関大捷碑にしても、これは2005年、2006年ですね。これは、韓国側が竹島問題を封印していくための一つの手段として、歴史認識問題、過去の歴史清算、歴史の和解です、そういう手段として取り上げているんだという基本的な認識をお持ちいただきたいと思います。

日韓関係を考えていくとき、もう一度日韓の国交正常化交渉を考えていかなければならない。なぜならば、1952年の2月ごろから日韓の国交正常化交渉の本会談が始まっていきますが、そのときは日本国内には数万の韓国側、朝鮮半島からの密航者たちというのがいました。それが、朝鮮動乱直後あるいはさなかの韓国にとって、本国に戻られては困るんですね。何とか彼らの法的地位を与えて日本にいさせたい、その外交カードが一つ必要でした。

それからもう一つ、日本は朝鮮半島に多くの資産を残してきました。しかし、それを持ち出されると朝鮮半島の経済が成り立たない。そういうことから、日本側の財産請求権を放棄する、そういった外交カードが必要でした。

そのときに使われたのが、李承晩ラインと李承晩ラインの中に入れた竹島問題ということです。そういった形で見ていくと、日本側は、人質ではなくて島を取られた形の中で戦後の日韓関係、外交が始まっていくんだということですね。

そして、2005年3月16日、島根県が竹島の日の条例を制定をいたしました。そして、竹島問題が浮上しますと、韓国側は、日本は当時自民党政権でしたけれども、自民党政権は余り協力的ではありませんでした、島根県に対してですね。そのときに、韓国側は、竹島の日条例が制定する2週間ぐらい前に、もう既に竹島問題に関連して東北アジアの平和のための正しい歴史定立企画団というものを発足させています。そして、それが2006年9月の時点で東北アジア歴史財団というふうに名前を変えていきます。そして、李明博さんの時代になると、その中に独島研究所というものが設置されます。これはいずれも、過去の歴史問題を含め、竹島問題がメーンでした。そして、それの中心になったのが最初は盧武鉉大統領であり、潘基文、今国連の事務総長をやっておられる方が外相をやっておられました。そして、李明博大統領もそれを継承しております。

そういった中で、東北アジア歴史財団が戦略的な研究テーマとして今取り上げているのが竹島問題、それから日本海の呼称問題ですね、日本海ではなく東海だと。なぜならば、竹島が日本海の中にあると日本の領海の中にあるようでいけないから自分たちの名前に変えなさいというのが東海問題です。東海というのは、韓国の、朝鮮半島の歴史でいうと、東シナ海、渤海も東海ですし、ですから東海が二つあるわけなんですね。